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【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode1 着任の日

スウェーデンの中部にあるウプサラは1477年に創立した北欧最古の大学「ウプサラ大学」のある町として知られる。その地で国際シンポジウム「Nobel Symposium(ノーベル・シンポジウム)」が開かれていた。5月3-5日のことだ。タイトルは『Efficient Light to Electric Power Conversion for a Renewable Energy Future(再生可能エネルギーの未来に向けた効率的な光電変換)』。次世代太陽電池「ペロブスカイト太陽電池」を中心とした太陽電池の研究開発をテーマに、著名な研究者らがそれぞれ30分ずつ自身の研究内容を披露していた。

シリコン太陽電池研究の権威であるオーストラリア・ニューサウスウェールズ大学教授のマーティン・グリーンや、色素増感太陽電池を生み出したスイス連邦工科大学ローザンヌ校教授のマイケル・グレッツェル。桐蔭横浜大学特任教授の宮坂力もまた、そこに招かれた一人だった。

ノーベル・シンポジウムはノーベル財団が開催資金を提供し、ノーベル物理学・化学・経済学賞の選考機関であるスウェーデン王立科学アカデミーが、研究者による提案を基に開催するテーマを決める。このシンポジウムとノーベル賞に直接の関係はない。ただ、宮坂は物理・化学分野で1年に2件程度しか採択されないと聞いたテーマに太陽電池が選ばれたこと、さらに、そのシンポジウムの話題の中心に自らが生みの親となったペロブスカイト太陽電池が据えられた意味を考えていた。

「スウェーデン王立科学アカデミーはノーベル賞の受賞対象としてペロブスカイト太陽電池を中心とした太陽電池の分野に関心があるのだろう」。

ペロブスカイト太陽電池は次世代太陽電池の本命として世界が注目する。現在主流のシリコン太陽電池が40年以上かけて実現した発電効率25%を、10年ほどで実現した。軽く薄く柔らかい特性を持ち、しかも安価に作製できるとして脱炭素社会へのキー技術として期待される。国内では政府が4月に量産化を強力に支援する方針を示したばかりだ。

「ペロブスカイト太陽電池は人と人の交流なしでは生まれなかった」。そう考える宮坂は、ペロブスカイト太陽電池について講演を頼まれると、その交流のあらましを聴講者に伝える。ノーベル・シンポジウムでも同様だった。5月3日14時。シンポジウムの初日に登壇した宮坂は、その交流について太陽電池研究の権威やスウェーデン王立科学アカデミーの関係者らに語り始めた。横浜郊外の丘の上の小さな大学で始まったその物語を-。(敬称略)

自分の名前が付いた成果を残したい

2001年12月1日。桐蔭横浜大学大学院工学研究科の教授に着任した宮坂力は、キャンパスの南西に位置する技術開発センター4階の実験室で清掃を続けていた。超電導を研究していた前任者の残渣だろうか。無機材料の残りカスがなかなか取り切れない。ただ、いつ終わるとも知れないその作業を続けながらも、自分に与えられた実験室に胸は躍っていた。

「これからは誰にも左右されず自分で自由に研究を切り回せる」

それまでの職場である富士写真フイルム(現富士フイルムホールディングス)は、東京大学大学院工学系研究科の博士課程を修了した1981年に入社し、20年間勤めた。東大の先輩で同社に勤めていた谷忠明につないでもらった縁だったが、企業組織の研究者という立場には、入社早々にやりきれない思いを抱き始めていた。

たとえ、研究者が成果を出しても、それが事業化への道に乗り始めると、技術の説明の主導権は上司に移る。それでは、実際に実験で手を汚した人間の存在が希薄化してしまうと思った。さらに人事ローテーションの名の下に研究テーマが数年に1度変わり、自らの成果が世に出ていかずに終わってしまうサイクルを何度か繰り返すことで、鬱屈した思いは大きくなっていった。

「やはり自分の名前が付いた研究成果を世の中に残したい」

教授に着任する3ヶ月前。48歳を迎えた01年9月10日を退社の日に決めた背景には、ちょっとした打算があった。勤続20年で退職金が上乗せされるのだ。「いつか辞めるのなら、そのタイミングを活用しよう」。そんな意志を抱きつつ、1年ほど前から大学に転職先を求めた。

新天地となった桐蔭横浜大学の名は、転職を意識するまで知らなかった。出会いは偶然、富士フイルムで取り組む新たな研究テーマを探していたときだ。東大在学時に研究した、有機エレクトロニクスに関わる機能性超薄膜である「LB(ラングミュア・ブロジェット)膜」について研究の最近の進展を把握しようと、図書館で関連の論文を検索していたところ、執筆者に『杉道夫』の名を見つけた。東大在学時から尊敬しており、学会の場で交流を持っていた研究者だった。驚いたのはその所属先だ。『桐蔭横浜大学』。

「桐蔭横浜大学という所に在籍しているのか。LB膜に関わる最先端の技術を研究する大学だから自分に合うだろうか。杉先生が所属する大学ならよいかもしれないな」

「ノーベル賞学者を輩出する」

桐蔭横浜大学は、桐蔭学園の理事長だった鵜川昇が「ノーベル賞学者を輩出する」というキャッチフレーズを掲げ、桐蔭学園工業高等専門学校を母体として88年に開学した。当時の関連資料には鵜川の「東大・京大の研究水準を抜く」という意気込みの言葉が残っている。

鵜川は大学を立ち上げるにあたり、総合大学をつくるほどの資本やスポンサーを持たない中で、技術立国である日本には工学部が最も必要と考え、まず工学部を立ち上げた。その中で、先端技術に焦点を当て、コンピュータとロボットを中心とする「制御システム工学科」と、無機・有機・生物を原材料とした新素材を開拓する「材料工学科」の二学科でスタートした。99年春には両学科を発展改組し、「知能機械工学科」「電子情報工学科」「機能化学工学科」「医用工学科」の四学科に再編成した。

宮坂が桐蔭横浜大学を知ったのは改組したすぐ後だ。ロボットや人工知能などを研究する「知能機械工学科」や先端技術の医療への応用を研究する「医用工学科」など、それぞれの学科が持つ色彩の豊かさにも宮坂は惹かれた。

図書館で桐蔭横浜大の存在を知った後日、宮坂は研究室の電話番号を調べて、杉に電話した。

「ちょっと転職を考えていまして」

すると、杉は宮坂を覚えているようだった。

「もしうちの大学でそういった話があったら連絡しますよ」

それから約1年が経過した頃、実際に教授のポストが空き、杉が紹介してくれた。そうして、大学教授の職を掴んだ。

「採用が決まりましたよ」。杉からメールで届いた吉報に胸は高鳴った。それほどの高揚は76年に東大大学院に合格した20代の時以来、人生で二度目の経験だった。

東大大学院は光を研究したくて進学した。早稲田大学理工学部応用化学科4年で高分子化学の研究室に所属していたころ、研究室の合宿で光の勉強会に参加する機会があった。そこでの先輩の話が宮坂の関心を強く光に向かわせた。

“熱の力は銃弾、電気の力(電圧)は手りゅう弾。光はナパーム弾だ。ものすごいエネルギーがあって、比較にならない”

森の中のように自然があふれ、野球場やラグビー場もある広々とした東大駒場キャンパスという場所も憧れで、そこで、自分が強い興味を抱いた光について研究できると決まった時の喜びは絶大だった。つまり40代半ばを超えた宮坂にとって、大学に自分の研究室を持つことは、20代の青年が抱く憧れと同じだけの価値があった。

一方、自分の研究室を求めた転職活動では桐蔭横浜大以外に、慶應義塾大学や日本大学など著名な大学にも応募した。しかし、採用には至らなかった。その意味で、順風満帆な活動だったとは言えない。それでも20年以上経過した今、宮坂は「桐蔭横浜大という場所に来て良かった」と振り返る。

理由は二つある。一つは東京都町田市にある自宅から車を運転して20-30分程度で通える場所のため、通勤時間が少ない分、研究により多くの時間を使えたと思うから。そしてもう一つは、その選択が「ペロブスカイト太陽電池」の発見につながったからだ。

もちろん、実験室の掃除を続ける2001年の宮坂は、まだ何も知らない。

証言者:宮坂力
主な参考・引用文献:『大発見の舞台裏で!―ペロブスカイト太陽電池誕生秘話』(宮坂力)/『わが人生 時代を動かす「教育改革」に捧げた半生の記録』(鵜川昇)/『大学の崩壊―対談・この危機を救う道はあるか!』(鵜川昇・野田一夫)/『桐蔭学園創立50周年記念誌』/冊子『NOBEL SYMPOSIUM NS191:Efficient Light to Electric Power Conversion for a Renewable Energy Future』
ニュースイッチオリジナル
葭本隆太
葭本隆太 Yoshimoto Ryuta デジタルメディア局DX編集部 ニュースイッチ編集長
「ドキュメント・ペロブスカイト太陽電池誕生」を始めました。ペロブスカイト太陽電池はノーベル賞候補とされ、今年4月には政府が量産化を強力に支援する方針を掲げるなど今、大注目の新技術です。その誕生の裏には生みの親として知られる宮坂先生のほかに、まだあまり知られていない多くの研究者らの関わりと、彼らの汗があります。全15回(くらい)でその全容を描きます。(毎週月・木曜日に更新する予定です)

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