【磯田道史】経営者は徳川家康のここを学べ
歴史研究に加えて、映像化された『武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新』など多数の著書の執筆やテレビ番組への出演など幅広く活躍している磯田道史氏。このたび、徳川家康を「人生の参考書」と位置づけて『徳川家康 弱者の戦略』を執筆した。家康は2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公で歴史ファンだけでなく経営者にとっても学びの対象になっている。磯田氏に執筆の背景や弱者から強者へ上った家康の歴史から経営者が学べる点について聞いた。(聞き手・八家宏太)
―今回、『徳川家康 弱者の戦略』を執筆した狙いと背景を教えてください。
歴史書は一般の人からすると内容が難しいです。時代背景も分かりづらく、難しくなりがちです。私自身、家族からも内容が難しいと言われます。例えば最近、妻には「なぜ戦国時代の武田家が名門なのかわからない」と言われました。それには『自治体の知事を400年間世襲したらと想像してみて欲しい』と返しました。
歴史書が難しくなる背景には歴史書が歴史研究者への研究成果の発表の場になってしまっていることがあります。そこで、本書は一般の生活者が知りたい徳川家康を説明しようと考えて執筆しました。読者に歴史研究者のまねごとに合わせてもらわないためです。家康についての歴史から何を受け取るかを考えたときに、得たい学びも得る学びも人それぞれです。生活者が知りたいことを説明する本にしたいと思いました。よくある細かい事実の枝や葉っぱだけ見せて木が見えないようにはしたくない。“桐一葉落ちて天下の秋を知る”(わずかな現象を見て大勢を予見することのたとえ)で、細かい史実は出てくるけどなんとか書こうとしました。
難しい専門書を書ける人はたくさんいます。難しいことを易しく書くのは誰でもできる、と言う人はいますがそれは間違いです。本書では、こなれた文章で無駄のない語り口にするのが難しかったです。
―長期政権の礎を築いた家康の政策手法につながる体験はどこにあったと考えますか。
家康が大変な上司に仕えた時間が長く、その経験が家臣や領民に余地を残す、『すみ分け』につながっています。よく比較される織田信長と豊臣秀吉は、能力がずぬけていて自分の了見で物事を進めていけるという価値観を持っており、それ故にどこまでも他人を侵害する恐怖があります。信長は競争心が高く、家臣が相手であったとしても自分を超えるのを嫌いました。例えば、家臣の明智光秀の屋敷に招かれた際に広間が自分の屋敷の広間より広いことに腹を立てたと言われています。秀吉はコンプレックスがあり、良い家紋や旗印を持っている名家があれば「それを従えている俺は偉い」と満足する人でした。いずれも上昇志向が強く、現代で言えば、ブラック傾向の強いベンチャー企業のようだと思います。果てしなく頑張れというので、結果的に2人に仕える家臣は『信長疲れ・秀吉疲れ』の現象を起こしました。
家康は、彼らとは対称的に、最低限の業務とルールを設定して君主と家臣をすみ分け、身分の永続性を担保して働く側に納得感を与えています。現代的にはホワイト企業の手法です。また、自分が支配するより以前に支配していた領主のやり方をすぐに変えない点も特徴で、その地に根付いている慣習をうまく使い、抵抗が強い部分をうまくかわしました。こうした手法の違いは、家康が教養人であることが大きいと思います。今川義元の人質になっていた若年期に、一流の人や本を見て過去の歴史に学び、踏み込む限度を決めていたのでしょう。
―家康は信長や秀吉といった上司や、武田信玄などのライバルからも優れていると思った点を大胆に取り入れたと聞きます。
信長からは天守閣や石垣の方式などを学びました。秀吉からは軍事力につながる検知や石高について学び、一方、国家制度では反面にしてすみ分けの手法につなげました。
秀吉は本物の家柄へのコンプレックスが強く、自らの(養子を含む)家族を官位に付けることが多かった。結果として本来官位に就くはずの公家を押し出してしまい、公家たちは困ってしまいます。それによって「秀吉がいなくなれば」という思いを公家に抱かせました。家康が晩年に定めた「禁中並公家諸法度」は、公家の官位の椅子は奪わないすみ分けをしました。お互いを侵害せず、制度が長続きしてほしいという思いを持っていました。
―状況判断では情報収集が重要です。
家康は自分の役に立つと思えば情報収集に動きました。例えば浜松に中国船が難破すれば、会いに行って中国貿易をも始めました。自らの能力を絶対視せず、自らの了見にないことは聞きました。外交や戦場などに顧問団がいて、よく彼らの話聞きました。
片方の言い分(片口)だけを聞かないという点も特徴でした。家康の言行などをまとめた江戸時代の書物『落穂集』で家康が“小僧三か条”という話をし、物事は複雑でいろんな面があるので、一つの側面だけを聞いて判断しないように大名や家老を戒めたとあります。自分の了見だけで判断すると間違えるのは、組織も国家も同じです。
―家康が周囲からの見え方を意識して言動をとった背景はどこにあると思いますか。
生まれつきもあるでしょう。それと幼い頃から人質として織田家や今川家など、いろんな場所に動かされています。その環境で自分の主張を通すのは難しい。相手側の立場や思考を考える背景にはそうした経験があります。
―経営者が家康から学べる点はどこにあると考えますか。
家康は人を資産と思って大切にしました。経営者は自分の力で起業しない限り殿様意識になりがちです。経営者は社員が働かない時に、社員を生かせていないと思えるかが重要です。社員も人間で、強いられては付いていきません。
例えば、家康の家臣で、戦場で最も活躍した武将の一人である本多忠勝は家臣の扱いが良かった。忠勝は隠居する際、子どもや家臣に戦で勝てる秘訣として「みなさんはほんの下っ端(現代的にはアルバイト)を使うのにも、ふびんがり情をかけて使ってください。雇われた者が本当にありがたいと思えば、そのとき初めて役に立つようになるのです』と話しました。社員をコストと考えて心から信じないのに奉公させようというのが無理な話です。社員をコストとみなすと経営者は社員から見限られます。まず経営者が社員を宝・資産として愛さなければなりません。
成長している企業は教育がしっかりしています。徳川家は適材適所での教育が充実していたのではないかと思います。弱者が強者になるには、脳内がしっかり耕されないといけないし、組織の末端まで教育が行き届いてないといけません。
徳川家に限らず戦国時代を生き残り、江戸時代にナンバー2の大国になった前田家の加賀藩、維新を起こした島津家の薩摩藩は教育が充実していました。前田家は雨の日や仕事がない夜の日は“車座教育”で合戦から日常までさまざまな場面を想定して話し合いました。それにより先輩の技能も伝承されていた。
近年、職場内での会食が減っています。行きたくない人の負担がなくなった良い面がある一方、社員間が交流する機会が減ったことで、スキルが伝承がされていないのではないでしょうか。
『もしも~だったら』と反実仮想で繰り返し話す機会を持った方が良いでしょう。例えば、もしも首都直下型地震が発生したら、という反実仮想も中小企業経営におけるテーマになるはずです。「もしも、新橋駅付近で営業活動をしていた時に地震が発生したら」と反実仮想して、本社には戻れないけれど、その付近の取引先の企業を手伝うと相手企業にとって我々は普通の取引先ではなくなるのではないかといった話をする機会は大切だと思います。
◇磯田道史(いそだ・みちふみ)氏 国際日本文化研究センター教授 02(平14)年慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。『武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新』『無私の日本人』『感染症の日本史』など著書多数。岡山県出身、52歳。