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ノーベル賞自然科学3賞、常識覆した研究たちに眠っていた未来を変える種

ノーベル賞自然科学3賞、常識覆した研究たちに眠っていた未来を変える種

骸骨を手に持つスバンテ教授(Frank Vinken提供)

2022年ノーベル賞の自然科学3賞が出そろった。古代人の遺伝子解析や量子もつれ、クリックケミストリーなど、いずれも当時の研究者の常識では不可能や無意味などと評価された研究だ。常識を覆し、いまでは量子コンピューターや新しいがん治療などの研究につながっている。古代人の遺伝子からは人類進化の変遷が読み解ける。始めたころは研究者にさえ理解されなくても、未来を変えうるタネが眠っていた。(飯田真美子、小寺貴之)

【生理学医学賞】古人類学の扉開く

生理学医学賞は、独マックス・プランク進化人類学研究所所長のスバンテ・ペーボ教授が受賞する。古代人の骨に含まれる遺伝子を抽出して解析する手法を取り入れた“古遺伝学”の先駆者で、遺伝子レベルで古代人の情報を手に入れられるようになった。現生人類の進化につながる成果を生み出し、その功績が認められた。

ペーボ教授は沖縄科学技術大学院大学(OIST)にも所属しており、5日に開かれた会見で「圧倒されるような時間が流れる中で成果が出ない時もあった。基礎研究を続けてきたことがノーベル賞につながった」と喜びを語った。

古代人から現生人類までの進化の過程を研究する「古人類学」。科学研究の分野では、例えば古代人の骨などにX線を照射して調べるといった、化学分析を利用して古代当時の生活環境などを調査する方法などが使われてきた。ただ進化の過程などを見いだす中で、より詳細な情報を得るには生化学的な知見が必要であり、そこに遺伝学を最初に取り入れたのがペーボ教授だ。

古代人の骨に残っていた細胞からデオキシリボ核酸(DNA)を抽出して解析することで、現生人類と古代人の関係を遺伝子レベルで調べられる手法を導入した。この手法を使って、古代人の「ネアンデルタール人」の全遺伝情報(ゲノム)を解読することに成功。また現生人類の祖先とネアンデルタール人が交雑していたことが分かった。さらに、シベリアにあるデニソワ洞窟から見つかった骨をDNA解析し、未発見だったヒト属であることを発表し、「デニソワ人」と命名した。

従来の古人類学にメスを入れたペーボ教授によって、新たな歴史の扉が開かれることにつながった。

【物理学賞】量子計算機の礎に

物理学賞は量子もつれを実験的に実証した3氏が選ばれた。量子もつれ状態にあるペア粒子は片方が上向きスピンを持つと、もう片方は下向きスピンを持つというように、片方を観測することでもう片方の状態が分かる。そして量子もつれ状態のペア粒子を2ペア用意し片方ずつをさらにもつれさせると、一度も接触していない粒子同士も量子もつれを起こす。

オーストリアのウィーン大学のアントン・ザイリンガー教授はこの不思議な現象を利用して量子情報を転送することに成功した。この量子テレポーテーション実験は数十キロメートルの光ファイバーを走る光子の間や人工衛星と地上の間で情報を送れることを実証した。

ただこうした量子のふるまいは不可解で、アインシュタインも懐疑的だった。フランスのパリ・サクレー大学のアラン・アスペ教授と米国クラウザー研究所のジョン・クラウザー博士は量子もつれ状態の光子を観測することで歴史的な論争に決着を付けた。アラン・アスペ教授は「問題を提起したアインシュタインに感謝しなければならない」と述べている。

この検証実験はベルの不等式の破れを立証するというものだ。不等式ではある上限が与えられる。観測値が上限を超えると不等式は成り立たず、量子力学が正しいと結論づけられる。ジョン・クラウザー博士は打倒量子力学を掲げて検証実験に挑戦した。当時所属していたコロンビア大学では理解されず「時間の無駄。まともな物理学に取り組んでくれ」と怒られたという。

だがこうした検証実験が量子力学の正しさを証明し、現在の量子技術につながっている。量子もつれは量子コンピューターの基礎となり、量子コンピューター同士を接続したり、量子通信、量子暗号など、さまざまな技術開発が進んでいる。

【化学賞】化合物を簡単結合

化学賞はクリックケミストリーと生体直交化学を確立した3氏が選ばれた。クリックケミストリーは二つの化合物をカチッ(英語でクリック)とはめるほど簡単に結合反応を起こす。生体直交化学は細胞などに影響を与えない化学反応を確立した。この成果を組み合わせると、細胞にさまざまな化合物を導入できる。がん細胞を標識して放射線で死滅させるなど、新しい治療法の道を開く。

米スクリプス研究所のバリー・シャープレス教授とデンマークのコペンハーゲン大学のモーテン・メルダル教授はアジド―アルキン付加環化反応を開発した。同反応では窒素が三つつながったアジドと三重結合を持つアルキンが五員環を作る。

水中で安定して反応が進み、単純で信頼性が高い。バックルをカチッとはめるように簡単でクリックケミストリーと命名された。シャープレス教授の受賞は2回目。便利なため有機化学者だけでなく生命科学などの研究者にも重宝されている。

米スタンフォード大学のキャロライン・ベルトッツィ教授は同反応を生体に応用した。生体内はさまざまな化学物質が混在する。周囲に影響を与えず、結合反応が阻害されない条件を探した。これは不可能と思われた。

アジド―アルキン付加環化反応は銅触媒が必要だった。銅は細胞毒性があるため使えない。そこでアルキンを環化し三重結合を歪ませた。これで銅触媒なしでも反応が進む。

さらにアジド化した糖を細胞の糖鎖合成回路に忍び込ませ、細胞表面にアジドを並べることに成功した。細胞に蛍光分子など結合させ標識できる。また、ある種の糖鎖はがん細胞を免疫から守る機能がある。この糖鎖を認識する抗体にクリックケミストリーで糖分解酵素を結合させ、がんを守る糖鎖を剝がす治療薬を開発している。

日刊工業新聞2022年10月7日
小寺貴之
小寺貴之 Kodera Takayuki 編集局科学技術部 記者
物理学賞と化学賞を担当しました。How entanglement has become a powerful tool (いかにして足手まといがパワフルなツールになったか)It just says click – and the molecules are coupled together(さあ、クリックと言ってみて、分子同士が結合しました)Chemistry has entered the era of functionalism (化学は機能主義の時代に入った)。こうしたプレスリリースのフレーズからスウェーデン王立アカデミーが、いかに科学を楽しんで伝えようとしているか感じます。こんなにウィットに富んだ文章は書けないよと悔しさと尊敬でいっぱいになりました。弊紙はノーベル物理学賞に米欧3氏 量子計算機の礎築く、ノーベル化学賞に米欧3氏 簡易手法で化合物合成。クリックケミストリーはワンクリックのクリックか、カチッという擬音のクリックかと説明して、そもそも擬音を新聞紙面には載せられない!とか。薬を簡単に作る方法、とわかりやすく書いたら有機合成のほとんどが該当しちゃうとか。なんとかしてお題のもつれや機能主義を紙面に忍び込ませられないか、と紙面制作の裏側で記者は葛藤しました。日本語メディアの情報量に物足りなさを感じたら原文に当たってみてください。きっとワクワクします。そしてクリックケミストリーのクリックは擬音からきてますが、すでにクリックは多くの人類に動詞として認識されています。言葉とは移ろいゆくものです。これはホモ・サピエンスが進化の過程で獲得した能力の一つです。クリックくらい簡単なクリック反応と覚えてなんら問題ありません。きっと。

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