理研・五神理事長が力説、量子の未来と資本主義の修正
理化学研究所の五神真理事長は政府の量子技術戦略の策定をけん引してきた。4月に理研理事長に就任し、戦略を遂行する立場になった。その量子戦略では、国産量子コンピューターの初号機立ち上げが喫緊の課題だ。日本として自前の量子コンピューターを構えることは、次世代の産業創出やエコシステムの設計に必須になる。
-就任してから各地の研究センターを巡っています。理研の研究はいかがですか。
「非常に面白い。多彩な分野の最先端に触れ、科学とはこんなにも面白いものだと改めて実感している。東京大学の総長対話で、小中学生になぜ勉強しないといけないのかと問われ、勉強すると人生を楽しめるようになるからだと答えたことを思い出す。最初は勉強が大変かもしれないが、それを乗り越えると面白くて楽しい世界が広がる。これは私自身の実感だ。勉強の努力は必ず報われると改めて伝えたい。理研は研究レベルが高く、そんな研究者が集って共に研究できるという環境はとても恵まれている。就任にあたり理研職員を前に就任のあいさつをしたときに、自分もそちら側に並びたかったと言ったほどだ。さらに、それぞれの分野でトップの研究者同士が刺激し合えば新しい研究が次々に生まれると確信した。異分野横断で触発し合う環境を作りたい。そうすればすごい力を発揮してくれるはずだ。いまからわくわくしている」
-理研が先端を走る分野として量子科学があります。2022年度内に整備を進める国産量子コンピューターの状況は。
「全力で取り組んでもらっている。国産初号機の整備は日本にとって〝マスト〟な課題だ。政府の量子未来社会ビジョンにも22年度内の国産の実機を整備することが明記された。量子コンピュータ研究センターには研究開発に集中してもらうため、本部が全面バックアップしている。実機の整備とは、ハードウエアを作るということだけではなく、量子ビットから実際に量子計算プログラムを実際に走らせ、答えが出てくるところまで実現することを意味する。これでハードウエアとソフトウエア、従来の古典計算機と組み合わせた統合的な研究も可能になる」
-22年に米IBMが433量子ビットの計算機を発表予定です。量子ビットの数では米国の後塵(こうじん)を拝しています。
「量子ビットの数を競うことは目標としていない。いま重要なのは日本国内で、量子ビットからアルゴリズムまで中身を自由にいじれる量子コンピューターを組み上げることだ。例えば米IBMとの連携で量子コンピューターの実機を日本に導入し東大が民間企業と連携して、実際に動かしながら量子計算の応用研究を始めている。稼働を始めて3カ月で稼働率が9割を超え、その8割が民間利用だ。量子コンピューターを使いたいというニーズはすでに大きいことがわかった。使ってみて改めてわかったことは、量子ビットの研究と量子計算アルゴリズムの研究だけでは不十分で、両者をつなぐ、コンパイラーやミドルウエアなどの研究も重要だ。その上で量子コンピューターと古典計算機を融合するシステムの本格的な研究へと進む。その先には膨大な研究開発領域が開ける。これらをすべてそろえていくことが量子時代の競争力となる。実際に量子コンピューターを走らせ、計算し、量子古典の融合システムを開発していく。そこに参入するには日本が自由に手を入れられる実機が必要になる。そして研究を日本で閉じる必要性はない。量子コンピューターをどう使っていくかは特に日米の協力が重要だ」
-量子コンピューターが実現すると、膨大な計算資源が手に入るとされます。量子技術の使い道は。
「まず、前提として量子力学自体は、この宇宙が誕生した138億年前から働いている。20世紀初頭に学問としての量子力学が誕生し、半導体エレクトロニクスなどの領域で量子効果を活用したデバイスが開発され、すでに人類はあちこちで使っている。現在、量子エンタングルメントや重ね合わせといった量子力学に特有の原理を積極的に使う〝量子コンピューター〟が動き始めた。それはこの数年のことだ。そもそもトランジスタなど半導体素子は固体中の電子の量子論がなければ設計できない。ところで、量子力学では物質中の電子の状態を波動関数で表現する。波動関数の時間変化はハミルトニアンによって決まる。そのハミルトニアンを書き下すことはできても、そこから導かれる運動方程式は計算機では簡単には解けないという場合が多い。私も学部生のころに一次元上に並んでいる原子を行き来する電子の運動を調べるという問題に取り組んだが、電子同士がクーロン力で反発しあう効果を取り入れようとすると、すぐ解けなくなった。思いっきり単純化したモデルですらすぐに計算量が膨大になり、解けなくなる。仕方なく、計算負荷の少ない小さなサイズのモデル系で計算するのだが、現実の系とはかけ離れてしまう。このジレンマを乗り越える計算技術を開発することは、理論物理学者の重要な課題になっている。それが量子コンピューターを使えるようになると、研究の方法論自体が変わる」
「そして政府の掲げる『ソサエティー5・0』やデジタル変革(DX)の実現にも計算能力がカギになる。物質科学に限らず、自動車や航空機などの機械や交通網、あるいは社会全体のデジタルツインを作って、性能や振る舞いをサイバー空間で予測する。電気自動車への転換により脱炭素化を進めたり、感染症対策の効果を予測して社会に行動変容を促したりと、社会を変えていくためにも量子コンピューターは重要な技術になる」
-計算自体は時間をかければ解けてしまうものもあります。高価なスパコンや量子コンピューターより、市販のパソコンの方が使いやすいのでは。
「情報はその内容と時間軸の二つの要素の兼ね合いで、その価値が大きく変わる。例えばゲリラ豪雨の予測は素早く計算結果が出ると避難を誘導できる。雨量などの気象データと河川、下水道などの地理的データを入れて10時間計算機を回すと水の流れについて精度の高い予測ができ、確かにゲリラ豪雨から30分後にあちこちで洪水が起きたことを再現できたという研究があった。それが最新のスパコンを使えば5分程度で計算できるという。もし降雨量の気象データがネットワークに繋がっている最新のスパコンにリアルタイムで送りこまれ、即時に計算できれば、ゲリラ豪雨から洪水が発生する30 分後よりずっと前に避難準備を始めることができ、多くの人命を救うことができる。水門の放水量調整や公共交通機関の予防的な停止など、被害を効果的に抑える対策も打てるようになる。同じデータを使って同じ計算を行っていても、タイミングによってその価値は大きく変わる。これはビジネスでも同様だ。製造業のサプライチェーンの強靭化やサービスの高度化など、先を予測して対策を柔軟に選ぶ。短時間に大規模な計算が可能になると、それ自体が競争力になる」
-量子コンピューター開発とスパコン「富岳」の後継機の開発が競合しませんか。どちらも大規模な計算資源を実現する研究です。
「スパコンと量子コンピューターが競合するものではないが、『富岳』後継機の次のスパコンでは、両者をどう組み合わせるかが鍵になるだろう。重要なのは量子か、スパコンか、という2択ではなく、量子と古典システムをハイブリッドで使い込む技術だ。量子コンピューター単独で稼働させることは考えがたく、古典計算機と量子コンピューターが高度に融合していくというイメージだ。融合部分がボトルネックになれば計算機としての性能は上がらない。古典と量子の融合の場面だけでなく、分散している計算リソースをどのように協調させてトータルの計算能力を上げていくかも重要だ。そこでは次世代通信も重要だ。だからこそ第5世代通信(5G)の次の世代のビヨンド5Gと先端半導体、量子技術は一体的に進めていく必要がある」
-理研の組織改革はいかがですか。大学に比べて理研は研究目標の決まったプロジェクト型雇用の研究者が多いです。教育負担はない反面、既存の研究に全力を投じています。融合領域への挑戦などの余裕はありますか。
「挑戦を楽しむ研究者が大勢いて頼もしいと感じている。研究レベルが非常に高く、周囲の研究者と刺激し合うことで新しい分野を開く成功体験を持っているからだろう。例えば組織改革では国内外の優秀な若手研究者にとって魅力のある研究環境を整えていくことが重要な課題だ。長期の難題にじっくり取り組めるような安定性と、頭脳循環のハブとしての人材の流動性を高いレベルで維持することが重要だ。流動性は組織としての多様性を高めていくためにも必要だ。実際、雇用の安定化よりも、より高いレベルの研究環境を求める研究者もいる。理研内での流動性も重要なので、理研としてルールの共通化は必要だ。しかし硬直的にならないように注意しなければならない。また理研内部に目を向けると同時に、理研の外にいる研究人材にも目を向け、門戸は広く開けておかねばならない。それは将来の理研の研究競争力にとって大切で、社会からの期待に応える上でも重要だ。流動性と安定性の両立は難しい課題であるが、ここは軽々に決めず、丁寧に対話しながらより良い解を求めて進めていきたい」
-プロジェクト型雇用の副作用は研究者だけでなく、間接部門にも存在します。知財や法務、広報など、分野ごとに即戦力を採用してプロジェクトチームを立ち上げてきました。分野に精通する人材をそろえた一方で理研全体としては間接部門が相乗効果を発揮しにくいのでは。
「人材の最適配置は研究所の経営そのものだ。優秀な人材を安定して採用するには労働市場がどうなっているか把握できていなければならない。優れた人材がどこにいるか、給料の相場や雇用形態を押さえた上でオファーを出す。この情報収集や采配を現場の研究者だけに任せてきた。だが研究者はかならずしも労働市場に明るいわけではない。理研全体としてのスケールメリットを生かせるように工夫していきたい。硬直的にならないようにして多様な人材がハーモナイズされ、安定性と個人の幸福を追求できる仕組みを考えていきたい。理研だけで最適化できるわけではない。国全体として人材の力を最大化する形を模索していく」
-東大では大学債を発行しました。理研でも検討するのでしょうか。
「想定していた質問だが、答えはノーだ。東大の大学債発行はコモンズ(公共財)を支える新たな資金循環の仕組みとして、市場を育てるという発想に基づくものだった。大学が生み出す知識や研究成果は公共財そのものだ。現在、モノから知識情報サービスへと価値の重心が大きくシフトする知識集約型社会への転換期にある。それがより良い社会となるためには、コモンズである大学が経済システムの中の重要な要素となるべきと考えた。税金だけに頼らず公共財を支える新しい仕組みとして大学債という形に至った。膨らんだ滞留資産を動かすための受け皿づくりという効果も重要だ。大学は調達した資金で事業成長のために戦略的に先行投資できるようになる。大学に限らず民間非営利団体(NPO)や非政府組織(NGO)も利益を追求する事業体ではないが、その活動規模が成長するというメカニズムが内包されていることは良いことだ。そのような事業体が成長することは未来に向けたより良い資金循環を育てていくことにもなる。大学経営が苦しいから資金調達したわけではないということを強調しておく。科学は人類の未来を豊かにするためにある。そのためにはオープンに進めることが重要だ。コモンズの悲劇という言葉があるが、コモンズは規模が大きくなると必ず悲劇に向かうと言われている。大きくなると他人ごとになり、フリーライドや早い者勝ちになってしまう。地球環境やサイバー空間もコモンズだ。現在の市場原理に任せておくと地球温暖化や環境破壊が進み、データの独占やデータを駆使した専制主義に陥る可能性がある。目指すべきは持続可能で包摂的な社会だ。グローバルスケールの大きなコモンズを守るために資本主義の修正が盛んに議論されているとも言える。そのカギを握るのは適切なリアルタイムデータ活用だと考えている」
-人文科学が科学技術イノベーション基本法に追加されました。理研でも取り組みますか。資本主義の修正や修正の効果を評価するには総合知が必要だと思います。
「文理融合はぜひ進めたい。文系と理系、短期と長期、基礎と応用といった研究の境界はいまや融解している。分業ではだめだ。資本主義をどのように直していくか、より良い社会とは何か、といった根源的な問いに挑戦できるレベルの研究を立ち上げたい。時間はかかるかもしれないが、しっかり検討したい。先日見せてもらった脳科学研究の最前線では『心地よい』や『よい』と思う部分にまで実験的に迫ることができつつある。非常に面白い研究で、行動経済学とも対応させながら脳機能の理解が進めば、人や社会の根源的な部分を科学できるかもしれない。コモンズの悲劇をいかに乗り越えるか。人ごとにせず自分事として捉え、行動変容を促し、みなで成長機会を創り出す。これこそが、わが国が掲げてきたソサエティー5・0の姿だ。サイバー空間と地球を統合したグローバルコモンズをリアルタイムのデータ活用を駆使して守っていく。ここに向けて、融合領域や新領域の開拓、研究手法そのものの革新も進めていきたい」
【略歴】ごのかみ・まこと 83年(昭58)東大院理学系研究科博士課程退学、同年東大理学部助手。88年工学部講師、90年助教授、98年教授。12年副学長。15年総長。22年4月から現職。理学博士。東京都出身、64歳。