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三菱重工で航空機に命を懸けてきた男。米国から届いたメールとは

MRJ開発秘話&大宮会長インタビュー「次世代機はボーイングとの協調路線の下で」
三菱重工で航空機に命を懸けてきた男。米国から届いたメールとは

大宮会長と初飛行時のMRJ

 三菱重工業が総力を挙げて開発する国産小型旅客機「MRJ」。2015年11月には国産の旅客機として53年ぶりに初飛行し、国民的な注目を浴びた。欧米メーカーなどが席巻する旅客機市場への参入ハードルはきわめて高い。それでも会長の大宮英明は「航空機は21世紀の日本をけん引する産業になるかもしれない」と信じてやまない。そこには「生みの苦しみ」にぶつかりながらも挑戦を続ける、泥臭いベンチャー精神がある。

<日米、厚い信頼関係>

 15年11月11日、午前9時35分。大宮はMRJの歴史的初飛行の瞬間を、愛知県営名古屋空港(豊山町)で見届けた。約1時間後、ふいに一通のメールが携帯電話に届いた。「おめでとう」。送り主は米ボーイング会長のジム・マックナーニだった。

 このことはMRJ、ひいては日米の航空機産業の関係性を象徴している。三菱重工の航空機部門は長年、民生品の分野ではボーイングの下請けで事業を拡大してきた。

 04年に開発が始まった中大型機「787」では、三菱重工は航空機の中核とされる主翼まで任された。しかも素材は最先端の炭素繊維複合材。三菱重工が戦闘機「F2」の開発で培った複合材の技術力が、ボーイングにも認められた。787は11年に納入が始まり、現在は中大型機として異例の月10機というハイペースで生産。重工の収益にも大きく貢献している。

 MRJの開発でも、三菱重工は顧客サポートの面などでボーイングから多大な協力を得ている。米国との“蜜月”こそ、日本の航空機産業を大きくしてきたのだ。相互に積み重ねた信頼関係は相当に厚い。

 しかし下請けとして生きることとは別に、三菱重工には旅客機そのものを開発したいという野心があった。「金属の機体構造は新興国でも早晩作れるようになる。複合材(の優位性)だっていつまで持つか分からない」(大宮)。

 MRJの開発構想が本格化したのは00年代初頭。同社は経済産業省が打ち出した小型旅客機の研究開発プロジェクトに手を上げ、03年ごろから30席や50席などの旅客機の事業化の可能性を模索した。

 半世紀前に国策で開発したYS11からは、品質や安全性の証明に対する基準が格段に高まり、一定の期間内に旅客機をつくって本当にビジネスを成立できるのか難しい面があった。

 決断が難しかった背景には、顧客であるボーイングへの配慮も存在も大きかった。大宮は「我々の顧客であるボーイングやエアバスと戦うのは避けたかった」。機体開発へのアドバイスだけでなく、納入後の航空会社サポートなどの面でもボーイングの協力が必要となる。米国の巨人と競わず、なおかつ三菱重工を支えうる需要のある領域を探した。

 慎重に検討を重ねた結果、事業化できると判断したギリギリのラインが、70―90席クラスのリージョナルジェットだった。同社は08年春、トヨタ自動車など外部からの出資も受けて、MRJ開発子会社「三菱航空機」を設立した。

<困難は想定以上も、あとはやりきるだけ>

 だが、実際に事業を始めてみると、その困難は想定以上のものだった。当初13年をもくろんでいた初号機の納入は、これまでに計4回遅れた。現在は18年半ばを目指している。

 計画の遅れに伴い、MRJの開発費も膨らむ。当初は1800億円程度を見込んだが、人件費を中心に大幅に膨らみ、現在では3000億円とも4000億円とも言われる。

 これまで三菱重工が三菱航空機の社長に据えた人物は事業化から7年で4人となった。現社長の森本浩通は三菱重工の原動機部門出身。社長就任まで航空機に携わったことはなかった。「我々に欠けているのは実行力」と語り、今後、MRJの開発に人的、資金的なリソースを集中投下していく考えだ。

 一方、MRJの開発では、着実に航空機の技術者も育つ。MRJの設計責任者である三菱航空機副社長の岸信夫は、航空機の設計一筋。防衛畑中心に歩んでいたが、10年からMRJに直接関わっている。

 足元では苦戦の続くMRJだが、中長期的な視野に立てば、その航路は決して暗くはない。森本は「初飛行後は引き合いが増えている。中には、かなり具体化している案件もある」と述べる。20年後には、MRJが100席以下の「リージョナルジェット」市場で世界市場の2割以上を押さえるとの英国の民間予測もある。

 MRJの開発の先には、次世代旅客機への道筋も見える。MRJで得た航空機の開発、製造、販売などのノウハウを使い、完成機事業の継続を目指す。

 道は見えている。あとは、やりきるだけだ。
(敬称略)

大宮会長にMRJの事業化経緯や今後の戦略を聞く


 ―三菱重工にとってMRJの意義とは。
 「当社は戦後もターボプロップ機『YS11』やビジネスジェットを手がけたがうまくいかず、航空機部門は長らく防衛省向けと米ボーイングの下請けが中心だった。技術、資金力の面で旅客機事業への参入障壁は高いが、これまでの事業基盤を生かして参入すれば、21世紀の日本をけん引する産業のひとつになる可能性がある」

 ―事業化の経緯は。
 「旅客機への挑戦は航空機に携わる人の夢だったが、事業は夢だけでは実現しない。慎重に検討を進めた。顧客でもあるボーイングや欧エアバスと競うことは避けたかった。そこで(米欧2社より)下のサイズを考えた。私はMRJを事業化した08年は副社長。MRJ計画を社内評価するチームの長だった。全社的な協力が必要と考え、航空機以外の事業本部長らにもMRJの評価チームに入ってもらい、決定した」

 ―事業化の決断は難しいものだったと想像しますが。
 「YS11の時代と比べ、安全や信頼性の基準が高くなっており、基準に適合する機体を一定期間内に、一定の資金で開発できるかが一番の心配だった。実際に始めてみるとさらに大変で、当初想定より時間を要している。今後も、技術的な難しさや開発に伴う資金投下、量産体制の整備やカスタマーサービスの構築を進める必要がある。ただ、現在の会社の財務基盤は強固で、心配はしていない」

 ―MRJの市場投入後も、収益の柱はボーイングの下請け事業です。
 「次世代旅客機『777X』では複合材の主翼をボーイングが作ることになった。我々は中大型機『787』で複合材主翼を製造しているが、ボーイングの内製志向の強まりもあり生産が(米国に)回帰している。787と比べて777Xでは日本の立場は相対的に下がる。我々としては次なる機種で、さらなる高みを目指す必要がある。素材メーカーなどとも協調しながら技術力を高める」

 ―MRJの後継機に関する考え方は。
 「我々はまずMRJの事業化という高い壁を乗り越えないといけない。ただ、完成機事業への参入で将来的に技術的、設備的なアセット(資産)が残る。これを活用しないのはもったいない。何らかの形で完成機事業を継続する。やはりボーイングを顧客として仕事をしている以上、次世代機についても、そこには踏み込みたくはない。ボーイングとの協調路線の下で、例えば機体の共同開発やアジア向けの生産ラインといったこともあり得る」
(聞き手=名古屋・杉本要)

※現在、日刊工業新聞で「挑戦する企業 三菱重工業編」を連載中
日刊工業新聞2016年1月1日「「挑戦する企業」より
明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役デジタルメディア事業担当
大宮さんは三菱重工の経営トップとは思えないほど「普通の人」っぽい。でもMRJの立ち上げや機構改革、約40年ぶりの事務系社長の宮永さんを後継指名したあたり相当に肝の据わった経営者である。保守的な重工が大きく変わり始めたきっかけは、大宮さんの社長就任がトリガーになっている思う。

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