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脳本来のハイスペックを生かす。脳AI融合研究の最先端

<情報工場 「読学」のススメ#100> 『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』 (紺野 大地/池谷 裕二 著)

イカの目と脳の関係の「逆」を行く人間の脳と身体

「イカの目は、脳の性能に比べハイスペックすぎる」という説がある。アフリカ生まれの動物行動学者ライアル・ワトソンはこの説について、著書『未知の贈りもの』(早川書房)の中で紹介している。優れた視力をもつイカの眼球は莫大な情報量を脳に提供するのだが、原始的な脳はそれを処理しきれないのだという。ワトソンは「高価な望遠レンズを靴のあき箱にのっけるようなもの」と表現し、その不条理さの謎を提示する。

これの「逆」が、人間にいえるのかもしれない。『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』(講談社)の中で、著者の一人、脳研究者で東京大学薬学部の池谷裕二教授は、次のように書いている。「脳の真のポテンシャルが、残念ながら今は、身体という制約で閉塞されている」。これは、人間の脳が身体機能に比べてハイスペックすぎる、ということではないか。もし、私たちにエラや赤外線感知能力があったとしたら、脳はその機能を使いこなせるだけのポテンシャルを持っていると池谷教授は言うのである。

池谷教授と、東京大学医学部附属病院老年病科の紺野大地医師らのチームは、人工知能(AI)を用いて脳の能力を開拓する「ERATO 池谷脳AI融合プロジェクト」に取り組んでいる。『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』はこの二人の共著で、脳と人工知能をめぐる研究の成果、最先端事情、そして未来について、多くの事例や世界の最新動向を踏まえて紹介している。

BMIでサイコキネシスが実現!?

AIの研究開発は日進月歩だ。最近では、AIが自然な絵や文章をつくるのも当たり前になってきた。この本で「ここ数年でもっとも衝撃的」と紹介されている、OpenAI社の開発した人工知能「GPT-3」の場合、「インスタグラムのようなアプリを作って」と自然言語で指示するだけで、その通りのプログラムコードを書いてくれるそうだ。もはやAIが何をどう処理しているのか、想像も及ばない。

脳科学の研究も負けていない。例えば2020年の米国の研究チームの発表によると、脳の視覚野に文字を書くように電気刺激を与えると、目を使わずに文字を読めたという。言わば「透視」だ。これは、脳を刺激することで、目、耳、口といった感覚器を介さずに「見る」「聞く」「味わう」ことの可能性を示唆している。

そして、俄然注目されるのがこの二つの最先端分野が融合した「脳とAIをつなげる」研究だ。脳とコンピュータの接続は「BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)」「BCI(ブレイン・コンピュータ・インターフェース)」などと呼ばれる。

よく知られ、この本でも取り上げられているのが、テスラやスペースXの創業者でもある“革命児”イーロン・マスク氏が設立したNeuralink(ニューラリンク)の研究だ。「コンピュータを通じて脳と人工知能を接続する」ことを目的に2016年にスタートした同社は、髪の毛より細い電極数千本以上を脳に埋め込み、スマートフォンのアプリ上で情報や刺激を操作するといったBMIの開発で一歩先を行っている。

2021年には、1024本の電極を脳に埋め込んだサルが、コントローラーを使わずに脳活動だけで卓球ゲームをプレイできるようになったという成果が動画つきで発表され、話題になった。ゲームのカーソルを上に動かそうとしているときと、下に動かそうとしているときの脳活動が異なることを利用したものだ。

BMIの医療や福祉分野への貢献も期待されている。いずれは、念じるだけで車いすを自在に操ったり、ロボットを操作して重いものを持ち上げたりできるようになるのだろう。もはやSFやゲームなどでお馴染みの「サイコキネシス(念力)」の世界だ。

社会倫理への懸念はあるが広がる人間の可能性に期待

もっとも技術的な課題は多い。脳に直接電極を刺す場合、刺した電極は劣化しないのか。脳深部の血管を避けることはできるのか。それ以前に、脳に電極を刺すことを社会がどれだけ許容できるかや、脳の改造に関する生命の尊厳や社会倫理にも配慮がいる。当然ながらハッキングによる洗脳といった悪用の懸念もあるだろう。

しかし、それでもなお、脳とAIの融合が拓く未来に夢は膨らむ。著者らは、2XXX年の世界としてこんな未来図を描く。

「朝、人工知能が脳の睡眠や覚醒を司る脳領域を刺激し、眠気なくすっきりと目覚める。朝食はサプリ1粒だが、脳刺激デバイスで味覚を司る領域を刺激し、一流レストランのモーニングを食べているかのような感覚を味わう。食べ過ぎて太る心配なく、美味しい食事を楽しめるわけだ。本を書きたければ、アイデアをもとに人工知能が本一冊分の文章を書いてくれる。足りないスキルや知識は、他人の脳にアクセスして補うこともできる」

一昔前なら単なるSFだったろう。だがこの本の読了後には、その実現性がくっきり見えてくる。この本には、人間の可能性が広がることに対する純粋な好奇心、わくわく感、科学の発展への志といったポジティブなエネルギーが溢れているのだ。

最後に、冒頭で触れたイカの目についてのワトソンの考察を紹介しよう。彼自身も突拍子もない発想だと記しているが、イカは、私たちの認識していない何ものかの目、いわば何ものかのカメラとして、世界中の海を「観察」しているのではないか――というものだ。

非科学的な想像だと思うだろうか? しかし、脳がAIとつながって人間の可能性が広がったとしても、自然には人間の想像を超えた領域があるという畏敬の念は、持ち続けなければならないのではないか。与えられた身体に対してハイスペックすぎる脳のような、不条理、不可解なものに対し、謙虚な姿勢を持ち続けることが、今後、研究を向かうべき方向へ進めていくための力になるような気がするのである。

(文=情報工場「SERENDIP」編集部 前田真織)

『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』
紺野 大地/池谷 裕二 著
講談社
290p 1,760円(税込)
情報工場 「読学」のススメ#100
吉川清史
吉川清史 Yoshikawa Kiyoshi 情報工場 チーフエディター
2016年3月にスタートした本連載、情報工場 「読学」のススメが記念すべき第100回を迎えた。スタート時から関わった者として喜びに堪えない。一度でも目に留めてくださった読者の方、ニュースイッチ編集部、取り上げさせていただいた100冊の著者および編集者の方々に感謝申し上げます。さて、本記事についてだが、脳AI融合の技術は、それが人間をコントロールする方向に進むか、それとも人間の潜在能力を引き出し拡張する方向に進むかが、紙一重なのだと思う。これは、人類を支配するか、パートナーになるか、といったAI単体の議論にも通じるのだが、いずれも後者の方向で研究と開発が行われるよう、倫理ガイドラインのようなものが必要だろう。悪用を完全には防げないだろうが、それを上回るメリットが出るような統一ビジョンが求められるのではないか。

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