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相場師的な株の売買に「科学」も持ち込んだ野村グループ生みの親

今で言うリサーチ部門のはしり「野村商法」を大衆にも公開。二代目・野村徳七は懐の深い人物だった
相場師的な株の売買に「科学」も持ち込んだ野村グループ生みの親

野村徳七は文化人経営者の先駆けでもあった

 証券近代化の立役者が、野村グループの生みの親である二代目・野村徳七だ。相場師的なイメージが強かった当時の株取引に、科学的手法を導入。調査・分析に基づく株取引の先駆者になった。

 家業の両替商「野村商店」を継承した徳七(幼名は信之助)は、有価証券の仲買に事業を拡大する。この時、徳七が求めたのが”株屋的体質“の打破。昔ながらの相場師的な株の売買ではなく、近代的手法による取引を志望する。その一環で生まれたのが「大阪野村商報」だ。

 自叙伝的な日記である「蔦葛(つたかつら)」に徳七はこうつづっている。

 「すべての証券について、その本質についての研究を科学的になすべき責任がある」。野村商報は今で言うリサーチ部門のはしりであり、社内だけでなく、一般大衆に進んで公開した点に、徳七の懐の深さがうかがえる。

 徳七は人材の育成にも心血を注いだ。「人材を養うこと、有為の人材を蓄え、適材を適所に配することは、むしろ資本力以上の大なる財産である」との哲学の下、でっち制度が定着していた証券業界においていち早く、高卒や大卒者の採用を開始。”企業は人なり“を実践して見せた。

 証券業の近代化を進める一方で、文化人としての顔も持つ。茶道や能をたしなみ、徳七が愛した茶道具などの古美術品は現在、野村美術館(京都市左京区)に収蔵されている。文化人経営者の先駆けである。
(敬称略)
※日刊工業新聞で毎週金曜日に「近代日本の産業人」を連載中
日刊工業新聞2015年10月02日 4面
明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役デジタルメディア事業担当
『蔦葛(つたかつら)』 原文よりの引用。 「見渡す限り、東西市場を通じ、この方面より我々に与へられたる業務を明朗にすべきである。そのために、依託され注文されていく行為は、これを定期に、延に、或いは直の取引に、現物に、各々特徴ある方向に向かって、取り扱ふことは、すこしも恥づべきでない。これを投機と断じ、思惑と評すとも、勝手にさせて置けばよい。敢然として我等は我等の信ずる道に向って鋭意驀進すべきである」。徳七は進歩主義者だったことがわかる。徳七が今の時代に生きていたら、ディリバティブなどとどう向き合っていただろうか。

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