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“海上の要塞”軍艦島は、採炭で近代化を支えた

最盛期には5300人が島内で生活
“海上の要塞”軍艦島は、採炭で近代化を支えた

軍艦のような端島の外観(2007年撮影)

 「家族みたいに助け合って生活していた。楽しかったな」−。

 35年ぶりに生まれ故郷「軍艦島(端島)」に降り立った加地英夫さん(76)。鉄骨がむき出しになる建物に目をやりながら、そうつぶやいた。ふるさとに戻ってきた安心した様子が顔からうかがえる。「仕事場も近くて少し地下に潜って掘ってこようかな、そんな具合だったよ」(加地さん)。島の姿は風雨にさらされて少しずつ変わった。だが軍艦島に刻んだ思い出は変わることなく、次から次へと脳裏に浮かび上がってくる。

 長崎市沖に浮かぶ海底炭鉱の島・端島。外観が軍艦「土佐」に似ているため「軍艦島」の通称を持つ。高層アパートが立ち並ぶその容姿はさながら海に浮かぶ要塞(ようさい)だ。もともと端島は水面に少し顔を出す岩場に過ぎなかった。1810年(文化7年)に良質の石炭が見つかり、明治時代半ばの1890年(明治23年)に三菱社(後に三菱合資会社に改組)の鉱業部門(現三菱マテリアル)が炭鉱の本格運営を始めた。高カロリーの石炭は官営八幡製鉄所(現新日鉄住金八幡製鉄所=北九州市戸畑区)など各地に送られた。日本の近代化を端島の石炭が支えたのだ。

 採炭量が増えるにつれて人口も増加。1916年(大正5年)に日本最古の鉄筋コンクリート造りの高層アパートが完成した。最盛期には東京都の人口密度9倍超もの5300人が暮らした。悪天候が続くと生鮮食品を運ぶ船が欠航になる。そのためアパートの屋上に土を運んで「屋上菜園」を作った。生きるためのたくさんの知恵があったのだ。

 長崎市は軍艦島を観光資源に再活用しようと約1億円をかけて桟橋と見学路を整備。年2万人を超える観光客を見込む。公開場所は島の南側半分程度に限られており、建物内部などは崩壊の恐れがあるため見学できない。

 2009年4月22日には一般公開の初日を迎えた。加地さんは一足先に島に上陸して当時の仲間である「ヤマの男」たちを待った。すぐに数人の仲間を見つけると手を取り合い笑顔で声をかけ合った。加地さんより5歳年上の山口安男さんは「昔住んでたアパートに上りたいけど、内部はダメなんだよな」と寂しそうな表情。それでも「今日の思い出をさかなに仲間とうまい酒が飲める」と続けた。初日は観光客や元・島民ら約70人が上陸。市民から募った観光ガイドが軍艦島の歴史を説明すると熱心に耳を傾けた。天候の悪い日を除いて毎日、海上都市への上陸が可能になる。

 「端島は文化・歴史を学べる貴重な財産。多くの人に見てほしい」。加地さんはそう言葉を残して、軍艦島を後にした。


(一部追記・修正。肩書き・年齢などは掲載当時)
日刊工業新聞2009年05月06日掲載「グラフ産業遺産」より抜粋(写真は掲載時と異なります)
三苫能徳
三苫能徳 Mitoma Takanori 西部支社 記者
今や長崎の人気観光地となった軍艦島(端島)。一方で老朽化は深刻な状況で、長崎大学が軍艦島の3次元CGを制作するなど、保存・整備に向けた対策がなされています。

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