平成の気候変動対策は不十分だった…環境政策に携わった男の悔恨

連載・平成の環境産業史(1)

 2018年夏、スウェーデンの少女が毎週金曜の授業を受けないストライキを始めた。少女は「私たちの未来が奪われているのに大人はうわべだけ取り繕っている」と、社会に対して真剣に温暖化対策に取り組むよう訴えた。19年になると欧州各地に学生ストライキが広がった。  「平成の30年間、気候変動対策はそれなりに進んだと思うが、不十分だった」。浜中裕徳氏(前地球環境戦略研究機関理事長)は若者の行動を知り、悔しさをにじませる。  浜中氏は環境省の審議官を務めるなど、35年にわたって環境政策に携わってきた。1997年(平9)、京都市で開かれた気候変動枠組み条約第3回締約国会議(COP3)の政府代表団として京都議定書の採択にも立ち会った。先進国が温室効果ガス排出削減の義務を負った京都議定書は、気候変動対策の転換点だった。  COP3以前、「日本は守勢に立たされていた」(浜中氏)という。経済大国となった日本が熱帯林の乱開発などで地球を破壊していると海外から非難されていたからだ。政府は国際貢献でイメージを払拭(ふっしょく)しようと、COP3を京都に招致した。  しかし、日本の排出削減目標の議論は難航していた。環境庁(現環境省)は90年比マイナスを求めるが、通商産業省(現経済産業省)は「産業界が付いてこない」とし、90年水準で安定化させる「プラスマイナス0」を主張。内閣官房の調整があって最終的に基本削減率は「5%」、日本は(省エネが進んでいることなどを考慮して)「2.5%削減」に落ち着いた。「環境庁だけだと相撲がとれなかった」(浜中氏)と振り返る。  COP3本番になると国際交渉が膠着(こうちゃく)。米国と欧州連合(EU)が歩み寄ると、日本も動きだした。「議長国が会議をつぶすわけにはいかない思いが政権にあった」(同)。2.5%削減から「6%削減」が日本の約束となった。森林による排出吸収も組み込んで負担を軽くしたが、産業界からは批判が噴き出した。  COP3前から産業界は削減目標に反対だったが、当時は政治からの追い風があった。97年当時の橋本龍太郎政権にとってもCOP3の成功が最優先課題だった。  2020年、京都議定書の後継としてパリ協定がスタートする。「京都議定書がなければ、パリ協定もなかった」(同)とするが、「京都をきっかけとして日本の温暖化対策をもっと前に進めることができなかった」と反省も口にする。日本人1人当たりの温室効果ガス排出量は、COP3当時とほぼ同じ水準にとどまっている。  パリ協定は排出実質ゼロを目指す。数%の削減率を議論していたCOP3当時とは次元が変わった。企業も大胆な排出削減策を考えないと、若者世代から「うわべだけ」と批判されかねない。 (文=松木喬)  1989年から始まった平成時代、気候変動、フロンや有害化学物質規制など、企業は次々と押し寄せる環境問題への対応に追われました。一方で太陽電池、エコカー、省エネルギー家電といった技術が育ち、「環境経営」という言葉も定着しました。企業活動に影響を与えた平成の環境産業史を振り返り、新時代の道しるべを探ります。更新は毎週火曜日。次回もご期待ください。  1989年から始まった平成時代、気候変動、フロンや有害化学物質規制など、企業は次々と押し寄せる環境問題への対応に追われました。一方で太陽電池、エコカー、省エネルギー家電といった技術が育ち、「環境経営」という言葉も定着しました。企業活動に影響を与えた平成の環境産業史を振り返り、新時代の道しるべを探ります。 【05】家電の技術革新を誘発した環境規制の威力(2019年4月30日配信)

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