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《ヤマハ編》ザ・インタビュー~「ボーカロイドの父」新たな挑戦(前編)

剣持秀紀ニューバリュー推進室室長「初音ミクが出た後からの出来事に立ち会えたのは技術者として幸せ」
 連載「ベンチャーに学ぶ!大企業イノベーション」の2回目は、ヤマハで日本発の歌声合成ソフトの開発を主導し「ボーカロイドの父」と呼ばれる剣持秀紀氏。老舗楽器メーカーでなぜ世界の若者が魅了する技術が生まれたのか。そして今年1月からボーカロイドのプロジェクトを離れ、新事業を支援する組織のトップに就いた。ヤマハに生み出された価値と、これからの挑戦について2回に渡って紹介する。

 歴史ある楽器メーカーとして歌の技術をしっかり押さえる

 ―ボーカロイドの開発に着手して、「初音ミク」が大ヒットするまで約7年もかかっています。ヤマハという伝統的な企業で、よく会社側がそこまで我慢してくれましたね。
「やっぱり新しいことをやらないといけない、というのは幹部の方は前々から思っていたと思います。2004年に最初のボーカロイド製品が出たのですが、音質に限界があって想定よりも売れませんでした。これで終わりかぁ~と思っていました。役員に報告する時はもうドキドキで。『嫌だな~』というオーラを出していました(笑)」

 「当時の研究開発のトップが『細く長くやりなさい』と言ってくれていて、会社側も常にこのプロジェクトを好意的に捉えてくれたのは、ありがたかったです。ヤマハには歴史ある楽器メーカーとして、歌の技術をしっかり押さえておかなければ、という考えがあったんです。なぜかというと、世の中で一番使われている“楽器”は歌ですからね」

 ―ボーカロイドの開発するきっかけを教えて下さい。
 「入社当初、音を消すアクティブコントロールの研究開発をやっていたんです。音声には縁がありませんでしたが、海外の企業と音声関連の合弁会社を作ることになって、上司が『剣持君、音声に興味はありますか?』『はい』ということで出向することになりました。合弁は3年半で解消になって、ヤマハに戻ってきて、その成果を生かしつつ、歌声を合成する技術をやろうということになったんです」

 「開発をスタートさせたのは2000年ごろです。どんな楽器でも、メロディーの情報を“打ち込み”さえすればコンピューター上で演奏ができるようになっていました。ところが当時はまだ、“歌声”だけは“打ち込み”ではできなかったので、『じゃあ、やろう』と開発をはじめました。具体的には、人間の声の断片をつなげる合成方法や、音符とあわせて歌詞を入力できる方法を作ることにしたんです」
 
 「開発当初、バルセロナ(スペイン)のポンペウ・ファブラ大学と共同研究をしていて、基礎的な信号処理は先方がやり、仕組みをヤマハが考えるという分担で。よくありがちな形だけの共同研究ではなく、具体的な技術にも踏み込んで指摘しあいながら、僕も3カ月に一回ぐらいは現地に行ってました。やるからにはできるだけ人の歌声に近いクオリティーを簡単に作れるものを目指そうと。それがボーカロイドの原型ですね」

 2004年の最初の製品はクオリティーの面で満足度が足りなかった

 ―やり始めた時は事業化できるイメージはどこまであったんですか。
 「あまりよく覚えていないんですけど。とにかく面白い開発だという感覚はありましたね。当初はバックコーラスの代わりに使ってもらうぐらいを想定して開発したんです。歌には息の成分が含まれているんですが、そこを表現するのには苦労しました。やっていくうちに、どんどん中身も良くなってきたので、それをどういう風に事業化させるかを意識していくようになり、最終的にライセンスビジネスをやろうと決めたのは2002年の中頃くらいです」

 「第一弾として2004年に英国のZERO-G社、それとクリプトン・フューチャー・メディア社(札幌市)からパソコン向けのパッケージ製品が出たんですが、まだクオリティーの面で少し満足いただけない部分がありました」

本田知行
本田知行 Honda Tomoyuki バカン
連載2回目はボーカロイドの父として知られているヤマハの剣持さんです。成功事例として多くのメディアに取り上げられているボーカロイドですが、実は開発開始は2000年。意外にも陽の目があたるまで時間が掛かっていました。実際、新規事業が立ち上がるまでには時間が掛かりますが、社内の理解が得られないのも事実です。ヤマハ社内ではどのような見方をされていたのか、その中ボーカロイドをどう立ち上げたのかをぜひ学んでいただければと思います。

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