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幻の航空兵器(上)国産初のジェット戦闘機「橘花」

幻の航空兵器(上)国産初のジェット戦闘機「橘花」

終戦間際に初飛行したジェット戦闘機「橘花」(富士重工業提供)

今年で戦後70年。テレビや新聞、雑誌などでも70年前の戦争を振り返る特集を数多見かけるようになった。その多くは政治のあり方や人々の生活に着目するが、一方で「企業は、技術者は、戦争にどう向き合ったのか」という視点もあるだろう。

 戦前の技術者といえば、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の主任設計者を務めた三菱重工業の堀越二郎氏が有名だ。日本は少なくとも、太平洋戦争前半までは数多くの戦闘機を輩出する「航空大国」だった。戦争中盤からは戦局悪化に物資不足が重なり、航空機の開発は鈍るようになったが、それでも終戦間際に二つの画期的な航空機を開発。量産されなかったものの、飛行試験にこぎつけていた。

 ひとつは、国産としては初めてジェットエンジンを採用した中島飛行機(現・富士重工業)の特殊戦闘機「橘花(きっか)」。もうひとつは、三菱重工業のロケットエンジン戦闘機「秋水(しゅうすい)」だ。ジェットエンジンとロケットエンジンという、当時最先端の技術を追求した二つの戦闘機だった。これらの技術は、戦後7年間の「航空禁止令」の期間を超えて、現在まで続く航空機の技術の礎になっていると言える。ニュースイッチでは上・下の2回に分け、この「幻の航空兵器」を特集する。

ドイツのエンジンを参考に


広島に原子爆弾が落とされた翌日、1945年8月7日。千葉・木更津にある海軍の飛行場で、1機の航空機が爆音をとどろかせて飛び立った。祈るような視線を浴びせるのは、海軍空技廠や中島飛行機の技術者たち。日本初のジェット機「橘花」が生まれた瞬間だった。
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日刊工業新聞記者
日刊工業新聞記者
人も物資もお金も不足する中、日本の技術者はなおも最先端の航空機開発にチャレンジしました。終戦でこうした技術の系譜はいったん途切れてしまいますが、戦前の技術の蓄積は航空機以外の分野、例えば自動車や新幹線に展開されていったようです。

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