池上彰氏に問う「現代における教養の意義」

「すぐに役立つ知識はすぐに役に立たなくなる」

 「教養ブーム」が続いている。雇用の流動化や人工知能との競争、競争原理が根本から変わる「ゲームチェンジ」の頻発などにより、変化に対応するための幅広い教養を身に付けることが求められているからだ。ただ役に立つ知識を求めるあまり“教養が即物化”しているとも言える。これに対しジャーナリストで、東京工業大学で文理融合のリベラルアーツを教える池上彰特命教授は「教養はよりよく生きるために学ぶもの」と強調する。

 ―技術者は科学や技術に加えて社会課題や経営について、経営者はさらに多様な価値観や文化について教養を身に付ける必要があると言われます。必要な教養の範囲とは。
 「教養とはすぐに役立たないものだ。私はテレビでは時事問題を解説するが、東工大では現代史を教えている。中東政治と過激派組織『イスラム国』の台頭など、人類の営みには因果関係がある。因果が分かれば歴史はがぜん面白くなる。人間への洞察は研究や経営にも生きる。教養に範囲はない。無限だ」

 「米マサチューセッツ工科大学を訪れた際、『先端技術は4年で陳腐化する。先端技術を教えるよりも先端を作り出す力を養うことが重要』と説明されたこともある。すぐに役立つ知識はすぐに役に立たなくなる」

 ―現在の大学環境を見ると、社会課題をうまく切り取り、自身の技術で解決できるという研究者が予算を多く獲得しています。
 「自分の研究する技術が社会にもたらす効果を考えるには教養が必要だ。社会の便益と副作用を説明できた方が都合はいい。教養の広さは研究者の競争力になった。だが教養はよりよく生きるために学ぶものだ」

 ―具体的には。
 「企業や大学で不正の当事者になったとき、一人の人間としてどう生きるのか、自分で考えて答えを出す際の手助けとなる。例えば従業員やその家族、下請けなどへの影響などと、不正の影響をてんびんにかける。工場廃水が公害病を引き起こし、売り上げの水増しは経営そのものを揺るがすかもしれない。周囲や感情に流されずに、自ら答えを出すために学んでほしい」

 ―社会の変化が早くなり、教養の中身が古典から同時進行で起きる事象に移り“教養の即物化”が進んでいます。参加交流型サイト(SNS)などで議論を深めれば、これに対処できませんか。
 「確かにSNSで発信して反響を受けると、大学のゼミのようなやりとりができる。たくさんの人と知識や考えを積み重ねることは可能だ。ただ私にとってはSNSを通じたやりとりよりも、自分で思索していた方が生産的で向いている」

 「また現代はメディアリテラシーがとても複雑になった。以前は新聞の読み方として、各紙の報道姿勢やニュースを見比べて、その重要さを計る術を教えていた。今は米大統領選でも真偽不明のニュースが乱れ飛んだように、ニュースが本物かフェイクか見分けないといけない時代になった。SNSの活用は教養を広げるというより、生きるために必要な教養を増やしているようにみえる」

【記者の目】
 メディアでも教育でも、受け身の姿勢だけで教養は身に付かないはず。そう思い、主体的に関わり議論する場としてのSNSへの期待を聞いたが、評価は正反対。むしろ自身が囲まれている情報がいかに偏っているか、自覚できないリスクを指摘された。一見、すぐに役に立たない教養をどう主体的に学ぶか。難しい課題だ。
(聞き手=小寺貴之)

日刊工業新聞2017年7月27日

小寺 貴之

小寺 貴之
07月31日
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 すぐに役に立たないことを主体的に学ぶ時間をどう捻出するかが問題です。池上先生は一日の中で新聞などを読む時間を決め、先に確保しています。ただ、それは職業人として必須だからでもあります。また理系の世界と文系の世界では大きな違いがあります。研究開発や品質管理は「なぜ」と問いをたて、検証を繰り返せば真因にたどり着きます。対して社会は「なぜ」を繰り返すと政治家や経営者の頭の中、国や企業などの組織の隙間に落ちていきます。
 研究者や技術者には、探究の先にブラックボックスが待っていることが不快で、とても気持ち悪く感じる人が少なくありません。社会科学や人間科学に対して「極めて複雑な問題を前に、極めて単純な問題に落として解いている気になっている。小学生のドリルを自分で作っては解き続けているよう。いつ本質に迫るのか先が見えない」と批判する研究者もいます。理学もそういう面があり、このドリルの集積をどうやって「教養」に高めていくか。研究者だけではなく池上先生のような人の役割が増していると思います。

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