研究不正に対しメディアは無力なのか

<研究不正・パラダイム転換へ#05>社会の“不正”許容度を推測することで貢献できる

 2014年に起きた一連のSTAP細胞問題の報道を巡り、メディア側の課題も指摘されている。日刊工業新聞も含め報道合戦が過熱した。また、メディアの多くは研究不正をゼロにすることを期待したが、これは社会から犯罪をなくすことに等しい。不正を見抜けず、ほとんどの報道機関に科学的な検証能力がないことも明らかになった。ただ不正や不正対策の事例研究、研究者の倫理醸成に貢献できる可能性はある。

 STAP細胞問題ではメディアと研究者の間に大きな隔たりがあることを再確認させた。「運営費交付金など税金を研究に投じる以上は研究不正はゼロであるべきだ」というメディア側の立場と、「不正は時間をかけて淘汰(とうた)されていくものだ」という研究者側の立場だ。またメディアの中でも認識の差があり、特に分かれたのは「研究不正はまれなケース」という見方と「不正はありふれている」という見方だ。

 この見方により今後の研究不正の対策のプロセスが変わる。まれと思えば、不正を働いた研究者の動機や手法分析し、対策を打てばゼロになると考える。反対に不正はありふれていると思えば、まずは総量を把握して対策ごとに費用対効果を測ろうと考える。

 文部科学省が特定不正行為と定義する「捏造(ねつぞう)」「改ざん」「盗用」の3種に限れば数は少ないかもしれない。だが再現性のない実験から都合の良いチャンピオンデータを選び、うまく組み合わせて論文のストーリーを紡ぐ手法はまん延する。

 実験を精査すれば仮説の要所要所で再現性のないデータにぶつかる。それをわかって論文を押し通すのは科学に背く行為と言える。速報誌の結果報告では許されても、査読のあるフルペーパーでは決して認められない。特定不正行為の一歩手前の不適切な研究活動は膨大に存在している。

 こうした現状を前にメディア側は、社会がどこまで不適切な研究を許すか、推し量る役割がある。不適切さや規模、金額、社会への影響などさまざまな要因を考えて記事の扱いを決める必要があるのではないか。

 京都大学の西川伸一名誉教授(オール・アバウト・サイエンス・ジャパン代表理事)は「(仮にSTAP細胞が存在しても)実用化からは遠く、社会への実害はあまりなかった。一方で(98年に英医学誌『ランセット』に掲載された)ワクチン研究での捏造論文は後に反ワクチン活動に広がり、北米でのはしかの再流行を止められなかった」と警鐘する。

 確かに社会の不正許容量を見積もることは難しい。メディアにとって研究不正の事例研究はコンテンツビジネスとしての費用対効果が低く、不正を犯罪のように広めれば不正を暴く以上の副作用も生じる。ただ、報道の現場には研究の実態を知り、メディアに転身した記者が少なくない。その役割が問われているのかもしれない。
                   

(文=小寺貴之)

日刊工業新聞2017年3月28日

小寺 貴之

小寺 貴之
05月17日
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研究不正は時代によって不正とされるラインが揺れ動きます。社会は悪事により厳しくなっていくので、緩和されることはほぼありません。取材した研究不正のマクロ研究では、社会の反応を新聞やテレビの報道数で計っていました。年月が経つほど記事が増えていて、報道機関が記事の書き方を学び、社会の感度が上がり、報道コンテンツとして成立していく過程が見て取れました。現在はSNSが大きな役割を占めることになるでしょう。マスメディアにとってもSNSにとっても、悪事として拡散させるのがコスパが良く、事例研究記事はまだ厳しいです。そもそも建設的な議論ができるほど研究実態が明らかになった例は極少数です。事例研究とはいわないまでも、社会的弱者や復興報道のようにまずは事例共有の記事をコンテンツとして成立させることがメディアの役割なのだと思います。

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