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事業をそぎ落とし「富士重」から「SUBARU」になった

「軽自動車を本当にやめていいのか。毎日眠れなかった」(吉永社長)
事業をそぎ落とし「富士重」から「SUBARU」になった

スバル360―K111型

 2016年6月、富士重工業の幹部陣は汎用エンジンを製造する産業機器事業の拠点である埼玉製作所(埼玉県北本市)を訪れていた。ある幹部は同事業の全従業員を前にこう説明した。「さみしい気持ちはあるかもしれないが、きっと良かったと思える日がくる」。

 富士重工業は9月末に産業機器事業から撤退する。全社売り上げの9割を占める車部門に経営資源を集中させ車の開発力を高めるためだ。産機部門の従業員は車部門に配置転換されることになった。

 02年にバス車体、鉄道車両の生産から撤退したのを皮切りに富士重はここ数年で非中核事業から相次いで撤退し、車、航空機、産機の3事業体制が続いていた。ただ近年は車や航空機が堅調である一方、産機事業は新興メーカーとの価格競争が激化し営業黒字が出ていたものの低収益が続いていた。

 「本当にやめていいのだろうか。毎日眠れなかった」。08年4月、軽自動車の自社開発・生産をやめる方針を発表するまでの日々について、当時社長の森郁夫の下で経営戦略や国内営業を担当していた吉永は振り返る。

 富士重が最初に世に送り出した自動車は58年発売の軽「スバル360」だ。車メーカーとしての出発点である軽からの撤退は同社にとって苦渋の決断だったといえる。

 だが、開発資源が限られる中で水平対向エンジンをはじめとする独自技術が生かせる登録車の開発で生きる道を選んだことが、現在の快進撃につながっている。

 今年初旬、埼玉製作所では産機事業の従業員をねぎらう会が開かれていた。撤退を前に車部門に異動した元産機のある社員は産機のメンバーを前に「車部門は温かく受け入れてくれた。みんな安心して異動してほしい」と呼びかけた。

 今回の産機撤退は富士重の選択と集中の最終章といえる。電動化や自動運転など車を巡る競争が激化する中、富士重は全従業員が結束し、車と航空機で成長する新ステージに臨む。
                 

(敬称略)
日刊工業新聞2017年3月28日
明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役デジタルメディア事業担当
個人的には軽からの撤退が大きなターニングポイントになっていると考える。軽商用車「サンバー」は我が実家で愛用していて好きだったが・・・

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