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日立製作所、日立市ではないもう一つの聖地巡礼に

創業者・小平浪平の“生誕の地”、栃木市が町おこし
日立製作所、日立市ではないもう一つの聖地巡礼に

小平浪平氏

 埼玉県深谷市の渋沢栄一、静岡県湖西市の豊田佐吉ら地域ゆかりの実業家を紹介する記念館が人気だ。栃木市の栃木商工会議所は日立製作所の創業者、小平(おだいら)浪平の功績をたたえた“生誕の地”の町おこしに乗り出す。

 1874年(明7)生まれの小平は自前技術にこだわり、36歳で国産初の5馬力誘導電動機を開発、技術立国の礎を築いた。「やせても枯れても自分でつくる」という言葉は日立のモノづくり精神の支柱として受け継がれている。

 日立は栃木に工場を構えるが、創業の地は隣県の茨城県日立市。長男ではなかった小平が“創業家”にならなかったことも、出生地とのつながりを希薄にした。「近代日本の発展に貢献しながらも、戦後の公職追放もあって地元で顕彰されないままきた」と栃木会議所会頭の大川吉弘さん。

 栃木市は明治初期には県庁が置かれ、商業と金融で栄えた。会議所も創立125年だが、激動の中でかつての会頭企業の7割が転廃業した。小平の顕彰で「経営革新を促したい。起業家魂を学ぶ契機になれば…」

 小平記念館はすでに日立市にある。栃木市に残る生家などを通じ、小平の精神を地元の若者にどう伝えるか。郷土の偉人を顕彰する手法にも知恵が試される。

小平浪平は希代の起業家だった


 「あの激動の時代に、ベンチャー企業として産業を興したことは称賛に値する。今も日立の精神的支柱であり、わたしを含めて全社員が尊敬の念を抱いている」―。日立製作所の創業者である小平浪平。最強のベンチャーの旗手を現会長の中西宏明はこうたたえる。

 多くの日本企業が欧米の技術に頼り、近代化を模索した20世紀初頭。若き技師だった小平だけは全く異なるスタイルを貫いた。欧米の模倣を嫌い、自主技術、国産技術に執着。数々の失敗を繰り返しながらも、自らの夢と可能性を信じた。小平の「独立独歩」の精神は、国産初の5馬力電動機(モーター)の開発に結びつき、技術の日立のDNAとなる。

 日立設立から15年後の1935年。小平は新入社員に対し、こう訓示した。「日本の機械工業を進展させて、日本の隆々たる国運にそっていきたい」「社会の仕事とは、金儲けばかりやっているのではない」。優れた自主技術や製品の開発を通じて、社会に貢献する必要性を説いたものである。これが現在も受け継がれる“日立の精神”に他ならない。

 小平が唱えた基本方針から80年。今年の入社式で社長の東原敏昭は、「歴史の中で社員に培われたものが『和』『誠』『開拓者精神』の日立創業の精神。大切に受け継がれている」とのメッセージを送っている。小平のスピリッツは、グローバルに挑戦するという高い志として、今も日立グループに生き続けている。
(敬称略)

日刊工業新聞2015年08月21日


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明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役デジタルメディア事業担当
小平浪平はソニーの井深大氏やパナソニックの松下幸之助氏のようなカリスマ創業者ではなく知名度も低い。そして経営の世襲を認めなかった。歴代の社長も創業家をより所にする経営をしてこなかった。しかし今後、事業がグローバル化すればするほど、社是やビジョンの共有が重要になる。

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