鋳造業界に新風を吹き込めるかー。譜面を図面に持ち替えた4代目社長の挑戦(前編)

錦正工業、自社製品の鋳物製ワインクーラーで世界に打って出る

 この冬、一風変わった鋳物製品が発売される。鋳物と聞けば重たい鉄の塊というイメージを持つ人が多いだろう。それを一変させようと生み出されのがワインクーラーだ。

音響エンジニアの道を捨て家業を継ぐ


 栃木県最北部に位置する那須塩原市に、鋳造業界でひときわ異彩を放つ企業がある。錦正工業は鋳物加工の一貫生産で、多品種少量の事業展開を強みにしている。
 
 陣頭指揮を執るのが、4代目社長の永森久之(40)。永森は元サウンドスタジオエンジニア(※)という異色の経歴の持ち主。永森の枠にとらわれない発想と行動力が、窮地に陥っていた会社の業績を回復させ、今度はオリジナルの自社製品を売り出そうとしている。ただ永森がここまでくるには多くの曲折があった。

 錦正工業(創業時は永森製作所)は1927年に設立した87年の歴史を誇る老舗企業。永森の祖父が農業機械の製造・修理を行う鉄工所として開業し、その後、鋳物製造に参入した。永森の父が2代目を継いだが、就任後まもなく交通事故で急逝。当時、永森はまだ3歳だったため、祖母が3代目社長に就任することになった。

 普通なら長男である永森が4代目を継ぐが、本人は物心ついた時から家業には一切興味はなく、祖母から社長就任の要請を断り18歳の時に上京し好きだった音楽の道へ進む。DJや若手アーティストへ楽曲を提供しながら、サウンドスタジオエンジニアとして才能を開花させていった。

 その頃の家業といえば、大手顧客が海外へ生産シフト、バブル崩壊など業績は悪化の一途をたどっていた。永森も状況は気にかけていたが、楽曲提供をしていたアーティストが売れ始めるなど仕事も順調。仕事仲間からの強い引き留めもあり、祖母からの度重なる要請を固辞し、そんな状況が8年近く続いた。

 そしてついに祖母の熱い想いに折れ、2001年春に那須塩原へ戻る。04年に29歳の若さで社長に就任、当時の決断について永森は、「あの時、祖母に泣きつかれたことに感謝している。家業を継いで良かった」と振り返る。業界の違いはあれ、何も無いところから創り出すという点では共通。「クリエイティブな経験がなければ、今回のオリジナルブランド製品の発売や構想中の新規事業も思いつかなかったかも知れない」という。

ひとまず自社製品から受託路線へ転換


 下請けがほとんどを占める中小企業にとって、自社ブランド品を生み出し“メーカー”になることは憧れだ。錦正工業は、そんな自社ブランド品を42年前から既に製造・販売していた。「Vプーリー」と呼ばれる動力伝達部品である。

 しかし、永森が入社した頃には、Vプーリーの売り上げは激減しており、自社製品を中核突き進んでいた同社の事業は行き詰まっていた。社内には規格通りのVプーリーをつくる生産設備と技術力しかない状態。このままでは会社が潰れるのも時間の問題だった。

 入社して早々に永森が打ち出した方針が、積極的な受託生産である。同業が嫌がる少量かつ手離れの難しい製品をあえて狙うことで他社との差別化を図った。また、幅広い業界の案件に取り組むことで短期間のうちに技術力を蓄積させていく。業績は徐々に回復し、今では受託生産の売り上げが自社製品の5倍を超えるまでになっている。

 しかし、それで満足する永森ではなかった。錦正工業は自社製品(Vプーリー)を既に手掛けてはいたが、あくまでもそれは機械に組み込まれる部品の一つ。永森には受託生産で経営基盤を固める一方、いつかは機械装置そのものやコンシューマー向けの“第2の自社製品”として世に出したいという想いがあった。会社の基盤を固めてから彼の行動力はますます加速度していく。そして、新たな自社ブランド製品を開発するきっかけが訪れる。
次のページはワインクーラー開発へ運命の出会い

ニュースイッチオリジナル
錦正工業ホームページ

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明 豊

明 豊
01月13日
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自社製品を作りたいと考える中小の加工メーカーは多い。特に2代目、3代目の比較的若手の社長。受託とのバランス、自己満足で終わらないために、中小メーカーをネットワーク化した緩やかなホールディングカンパニーみたいなものがあってもいいのかも(●●組合とかではなく)。

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